10周年:日本映画界の永遠の女神、原節子が逝去
本日、10年前、原節子が95歳でこの世を去りました。彼女は日本映画の黄金時代を代表する女優として広く知られ、”日本のグレタ・ガルボ”や”永遠の処女”という愛称で親しまれていました。 彼女は特に小津安二郎の作品と密接に関連付けられていますが、黒澤明や木下恵介、成瀬巳喜男などの著名な監督の映画でも活躍しました。 原節子は42歳で突然の引退を決意しましたが、映画業界に不滅の足跡を残しました。 ### 原節子の前小津時代 1920年6月17日、神奈川県横浜市に生まれた原は、若い頃から教師を目指していました。しかし、世界恐慌による家計の苦境から、彼女は十代半ばで学校を退学し、家計を助けるために働き始めます。 彼女の姉は新人監督の熊谷喜太郎と結婚しており、彼が彼女に演技を勧めました。 日本映画界のニッカツに参加した原は、15歳で『ためらうな若人よ』という映画で銀幕デビューを果たしました。 彼女のブレイクスルーは、1937年のドイツ・日本合作映画『娘(おとめ)たちの三段階』での役柄でした。 彼女は、結婚者に裏切られた後、火山に身を投げようとする伝統的な日本の女性、三津子を演じ、観客に大きな印象を与えました。 この映画のプロモーションツアーでは、ヨーロッパやアメリカを訪れ、そこで当時の人気女優マルレーネ・ディートリヒに案内されたとされています。 日本に戻った原は、第二次世界大戦中のいくつかのプロパガンダ映画にも出演しました。 同志社大学のグローバルスタディーズ大学院の助教授である菅野裕佳によると、原は、“家庭で逆境をしっかり耐える女性”というイメージを提示していた一方で、戦後は“明るく、自主的で独立した女性”を演じることが多かったとのことです。 1946年の黒澤明のメロドラマ『わが青春に悔いなし』では、無垢でおしとやかなブルジョワの娘、由紀恵を演じ、社会に目覚める過程を描きました。 ### ノリコ三部作 『わが青春に悔いなし』から3年後、原は小津安二郎と初めてのコラボレーションとして、『晩春』に出演します。 この映画では、未亡人である父親、周吉(演:木津竜)が唯一の娘を結婚させなければならないというストーリーが展開されます。 原の演じたノリコは、父との深い絆があるため、結婚に対して躊躇いを見せるという内面的な葛藤を繊細に表現しました。 彼女の2作目の小津映画『早春』では、ノリコは再び登場し、前作とは異なり、より楽観的で自分の気持ちに正直なキャラクターとして描かれました。 原は、幼馴染のやべ君との結婚を受け入れるも、家族の期待を裏切るかもしれないことを理解しています。 小津は、彼女に関して「もう4、5人も欲しかった」と言ったとされています。 しかし、原のノリコとしての最も有名な役柄は、1953年の『東京物語』に見られます。 当初、国際的な観客には”あまりに日本的”と見なされたこの感動的なドラマは、1958年に英国映画協会の初代サザランド賞を受賞し、徐々に世界的な注目を集めました。 『東京物語』は、5十年後には視点と音雑誌による映画監督の投票で最高の映画に選出されました。 ノリコは、感情を抑える寛大な戦争未亡人として登場し、彼女のキャラクターは映画史上最も記憶に残るものと見なされています。 ### 黒澤明からのオファーを辞退 ノリコ三部作の合間に、原は黒澤明の名作『羅生門』で妻の役をオファーされましたが、これは彼女の兄妹である熊谷が彼女にはふさわしくないと感じ、彼女はこの役を辞退しました。 その結果、役割は京町卓子が務め、映画は1951年の第12回ベネチア映画祭で金獅子賞を受賞しました。…