1974年、サンディエゴ州立大学の新入生であるタニャ・ガーディニを性的に暴行し、殺害したエリス・ハンディが仮釈放の審査を受けることになりました。
ハンディは1975年に終身刑の判決を受けました。
タニャ・ガーディニは、1974年12月2日の夜、ルームメイトが感謝祭の旅行から帰宅した際に、二人が共有していたズーラホールのドミトリーで発見されました。
ガーディニは、性的暴行を受けた後、絞殺され、その後、複数回にわたり性器を刺されていました。
彼女はほぼ裸で、無数の刺し傷を抱えた状態で床に横たわっていました。
この凄惨な事件は、ズーラホール中に広がる恐怖の叫び声を呼び起こしました。
サンディエゴ警察が事件の捜査を行う中で、学生たちは恐怖に怯えていました。
ハンディは、アーカンソー州出身の21歳の海軍兵士で、USSニューオーリンズに配属されていました。
彼はガーディニの遺体発見から24時間以内に逮捕され、郡の拘置所に収容されました。
事件当日、ハンディは殺害前に約4リットルのワインを飲んでおり、最初は他の女の子を探してズーラホールに行ったと証言しています。
しかし、彼女は不在だったために、隣の部屋に住むガーディニを訪れることに決めました。
二人は数週間の間、カジュアルな知り合いでありましたが、ハンディはもっと親密になりたいと考えていました。
ガーディニに拒絶されたことで、ハンディの「女性からの生涯にわたる拒絶感」が引き起こされ、彼は彼女を殺害したとされています。
彼は、彼女が拒絶したことを他の人に知られたくなかったからだと語っています。
最初に彼女を絞め殺し、その後、遺体の上で自慰行為をしました。
さらに、ハンディは死後にガーディニの体を鉛筆で何度も刺し、現場を「狂人が犯したかのように見せたかった」と告白しました。
その後、ハンディは、最初に訪れようとしていた居住者と共にマクドナルドやクラブに出かけました。
ハンディが残した手紙が警察を引き寄せ、彼は翌日、32ストリート海軍基地で逮捕されました。
ガーディニのルームメイトであり、幼馴染でもあったサンディ・クインリーが彼女の遺体を発見しました。
ガーディニは、ウォルナットクリークのラスロマス高校で同級生と共に卒業し、18歳でヘッドチアリーダーを務めていました。
彼女は学校の活動にも積極的で、卒業時にはクラスのトップに立ち、ウィンターカーニバルのプリンセスに選ばれました。
彼女は、一緒にソロリティの一員として入会する予定だった他の友人たちと同様に、ギリギリで命を奪われました。
ガーディニは水上スキーやダンスを趣味としており、母親のイヴォンヌ・デュアルテと義父に生存されています。
ハンディは死刑を回避するために有罪を認めましたが、ガーディニの母親は大学に対し、さらなる法的措置を追求しました。
ガーディニの死は、大学の安全性についての議論に火をつけ、サンディエゴ州立大学のキャンパス内での安全がどれほど確保されているのかが問われました。
当時、サンディエゴ市内での死亡率が高いにもかかわらず、大学の警察官は武装していませんでした。
大学内での銃所持に賛成する見解もあれば、不安を覚える学生もおり、意見は分かれていました。
しかし、ガーディニの母親はキャンパスライフに限らず、安全に関する懸念を広げました。
彼女はカリフォルニア州立大学システムに対し、管理不足を理由に訴訟を起こし、ガーディニに危険が及ぶ可能性を警告しなかったとして、CSUを責任者としました。
1979年の裁判で、裁判所はガーディニがドミトリーに住んでいることによって、大学に安全が保たれる責任があると認めました。
この判決は、以降のカリフォルニアにおけるさまざまなケースの前例となりました。
ハンディは1975年に仮釈放の可能性をもって終身刑を言い渡されましたが、2009年の仮釈放審査では、犯罪の「重大性、残酷さ、恐ろしさを軽視している」として却下されました。
画像の出所:cbs8