2023年6月24日、ワシントンDCでの記念プレート除幕式が、記録的な暑さと湿気の中で開催されました。
その場には、ワシントン・インフォーマーの創設者であるカルヴィン・ロラーク氏の友人や家族が集まりました。
ウリカ・ハギンズ・アクスム氏は「カルヴィン・ロラークを考えるとき、彼を語り手、戦士として思い浮かべる」と述べ、彼が残した遺産を振り返りました。
約40名が集まり、ロラーク氏がワード8、DC、そして市内のアフリカ系アメリカ人たちへの貢献について語りました。
プレートは、インフォーマーが60周年を祝っている今年に、マーチン・ルーサー・キング・ジュニア・アベニューSEに位置する「ザ・クララ」で掲げられています。この複合施設には、アパート、商業施設、そして未来の博物館が含まれています。
アクスム氏は、このプレートがロラーク氏を称えるのに適したものであると強調しました。
「このプレートを通じて、彼を決して忘れない」と述べました。
カルヴィン・ロラークの生涯
ロラーク氏はテキサカーナ、テキサス州の出身で、1950年代初頭にワシントンDCへ移り住みました。
1964年にワシントン・インフォーマーを創設し、妻のウィルヘルミナ・ロラーク氏と共に、黒人のニーズに応える慈善団体を支援するための「ユナイテッド・ブラック・ファンド」を共同設立しました。
彼はDCの公民権運動にも積極的に関与し、マリオン・バリー氏、初のワシントン出身の議会委員ウォルター・フォントロイ氏など、多くの著名人と交わりました。
反暴力活動家のアンソニー・モトリー氏は、1960年代にロラーク氏と知り合ったきっかけを語りました。
「警察は若者たちに何かをした」とモトリー氏は記憶を振り返ります。「南東部地区から大勢の人々がシカゴ通り11番地の警察署に抗議しに行きました。
私たちはその場で混乱を起こす気満々でしたが、そこで声を上げたのがフォントロイ、バリー、ロラーク氏でした。」
モトリー氏はロラーク氏を真の意味での「自由の戦士」と呼び、彼のような人々が現在では少ないことを皮肉的に述べました。
「彼は学校教育において黒人史を教えるように求め、若い心を刺激するために学術大会のアイデアを持ち出しました」と振り返ります。
43年前、インフォーマーが全国的なコンペティションの公式スペリングビーの拠点となり、この地位を持つ唯一の黒人新聞となった背景には、ロラーク氏の希望がありました。
元D.C.議会メンバーのウィリアム・ライトフット氏、ワード8の起業家フィニス・ジョーンズ氏、そしてDC大学理事会の議長ワーナー・セッションズ氏は、それぞれの人生においてロラーク氏が果たした役割を語り合いました。
ライトフット氏は、「ウィルヘルミナを語らなくてはならない」と述べました。「私は’ロラーク大学’を卒業しました。彼女から最初の仕事を得ました」と語ります。
それでもライトフット氏は、ロラーク氏の名言を振り返ります。「人々がやらなければ、それは成し遂げられない。私たちは、私たちよりも長く続く制度が必要だ」と。
ジョーンズ氏は、「それが現実となるためには、私たち自身が行動しなければならないというロラーク氏の哲学があった」と強調しました。
ライベートセレモニー
ロラーク氏の義理の息子であり、彼の娘であるワシントン・インフォーマー社の出版者デニス・ロラーク・バーンズ氏の夫であるラファイエット・バーンズ三世氏は、プレート除幕式の執行役を務めました。
「このプレートを設置してくれた2人の方々、ラリー・フリーマン氏とデリック・ジョンソン氏に感謝します」とバーンズ氏は述べました。「これは生きたプレートです。これは生きた制度なのです。今日はそのことが象徴されています。」
ロラーク一家のメンバーとして、ロラーク・バーンズ氏、母親のヴェラ・アボット氏、息子のデスモンド・バーンズ氏が出席しました。
バーンズ氏がプレートを除幕し、すぐにアフリカン・ドラマーのジョセフ・ングワ氏が「私たちは戦う」との言葉に合わせてビートを打ち鳴らしました。
聖職者モナ・シェリ・ポラード氏がプレートとロラーク氏の家族に祝福を送り、儀式の一環として触れる場面もありました。
ロラーク氏に長年親しくしていた元高齢者相談・配送サービスのエグゼクティブディレクター、コンチャ・ジョンソン氏は静かに見守る姿がありました。
「カルヴィン・ロラークは弱者を助けてくれました」とジョンソン氏は語ります。「私たちが必要とする時、彼は必ずそこにいてくれました。」
画像の出所:washingtoninformer