日本航空123便事故の40周年を記念し、遺族たちが集う
日本航空(JAL, JL)123便の事故から40年が経過し、世界で最も致命的な単独機の事故であるこの事件の犠牲者の家族が集まりました。 1985年8月12日のボーイング747の墜落事故は、東京羽田(HND)から大阪伊丹(ITM)へ向かう途中で発生し、520人が命を落としました。生存者はわずか4人でした。 事故で9歳の息子を失った宮島邦子さんは、遺族の記憶を保存し、航空安全を促進する支援グループを率いています。 彼女のグループは、事故の教訓を後世に伝えるため、遺族からの個人的なエッセイを集めた新しい冊子「赤い雲の後に」を発表しました。 宮島さんのグループは1980年代末から活動を開始し、これまでに「赤い雲」というタイトルの回想録を出版しています。 最新の冊子には、32人の寄稿者のエッセイが収められており、初めて執筆する7人の作家も含まれています。多くの寄稿者が高齢層であり、記憶の薄れを懸念しています。 冊子には深い個人的な反省文が掲載されています。77歳の谷口真智子さんは、何十年も夫を恋しく思っていることを書いています。妊娠中に夫を失った小沢君美さんの思い出も紹介されています。 亡くなった犠牲者の子供たちも成長し、家庭を持つ今、その不在がどのように彼らの人生に影響を与えたかを語り、若い世代にこの物語を伝え続ける決意を示しています。 日本航空123便は1985年8月12日午後6時12分に羽田空港を出発しました。出発から12分後、1978年のテールストライク事件で損傷を受けた後部圧力幕が破裂し、機体制御を失いました。 その結果、垂直尾翼が脱落し、すべての油圧システムが破壊され、機体は制御不能となりました。 32分後、機体は群馬県の御坂山に衝突しました。524人の乗員のうち生存者はわずか4人でした。 公式調査の結果、不適切なメンテナンス手続きが失敗の原因とされ、構造修理と検査基準に国際的な変更を促しました。 宮島さんは、事故の後、自らを「普通の主婦」と表現し、航空安全と事故犠牲者への支援の声を上げ続けています。 彼女の運動は、2006年に羽田空港近くに設立された日本航空の安全促進センターに繋がりました。 この施設では、残骸の一部や乗客の最後のメッセージなどの教育資料が展示され、航空業界の職員や一般の人々への訓練スペースとなっています。 センターのアプローチは、エアバスの安全センターを含む他の安全イニシアチブにも影響を与えました。 宮島さんは2024年の羽田での衝突事故における379名の乗客の効果的な避難の例を挙げ、訓練と準備が命を救うことを証明しました。 日本航空の東京本社で200人の社員に対する講演で、宮島さんは安全は単なる希望ではなく、共同の責任、異なる視点の受け入れ、過去からの学びによって築かれるものだと強調しました。 かつては航空会社のスタッフが遺族から距離を置いていると感じていたが、今は協力の進展を見ています。 「41年目が始まりました。共に安全を創り上げていきましょう」と彼女は聴衆に語り、追悼は悲しみだけでなく、すべての人々にとって安全な未来を形作ることに繋がると強調しました。 この事故を忘れず、安全を最優先にする全ての人々にメッセージを届ける思いが込められています。 画像の出所:aviationa2z