平均年齢が86歳を超えた原爆生存者たちの声は、急速に減少している。
東京の武道館で行われた8月15日の全国追悼式では、岸田文雄首相が約4,500人の公式代表者や遺族、子孫と共に参列した。
正午、1945年に天皇裕仁の降伏メッセージが放送された瞬間に黙とうが捧げられ、3百万を超える戦没者のために菊の花が捧げられた。
岸田首相は、「戦争の悲劇を二度と繰り返すことはありません。間違った道に進むことはありません」と声明した。
彼が「悔恨」という言葉を使用したのは10年以上ぶりであったが、日本の戦争に対する謝罪は行わなかった。
天皇徳仁も式典で「深い悔恨」を表明し、次世代に戦争の苦難を伝える重要性を強調した。
天皇は近年、沖縄、硫黄島、広島を含む戦場や記念碑を訪問しており、彼の努力は戦争の遺産を巡る政治的分裂とは対照的である。
岸田首相は論争の的である靖国神社を訪れなかったが、数十人の議員がこの地を訪問し、歴史を修正しようとする動きが政治情勢を形作っていることを浮き彫りにした。
広島では、80年目の原爆投下を迎えた。
1945年8月6日の原爆により、14万人の命が奪われた。
3日後、2発目の爆弾が長崎を襲い、さらに7万人を殺害した。
日本はその後間もなく降伏し、アジアを消耗させた戦争は終結した。
生存者が80代後半から90代に入っている中で、80周年は多くの人が生きているうちに参加できる最後の重要な節目と見なされた。
94歳の鈴藤実は、広島の慰霊碑で祈りを捧げながら「10年後、20年後には、この悲しく痛ましい経験を伝えられる人はいなくなるだろう」と語った。
約55,000人が集まり、120か国と地域からの代表者も出席した。
原爆が落ちた瞬間、午前8時15分に平和の鐘が鳴り、一分の黙とうが捧げられ、白鳩が放たれ、花が慰霊碑に捧げられた。
国連事務総長のアントニオ・グテーレスはメッセージを読み上げ、「過去を忘れないことは、今日と未来の平和を守ることに関わる」と述べた。
広島市長の松井一実は、ロシアのウクライナ侵攻を背景に核兵器への依存が「歴史の悲劇から学ぶべき教訓を公然と無視している」と警告した。
生存者団体も同様の懸念を表明した。
昨年ノーベル平和賞を受賞した草の根団体「日本被団協」は、世界が「かつてない核の脅威」に直面していると述べ、次世代が脆弱になると批判した。
こうした訴えにもかかわらず、日本は米国の核の傘への依存を理由に、核兵器禁止条約への参加を拒絶している。
岸田首相は「核兵器のない世界」へのコミットメントを繰り返したが、日本が核武装国に囲まれているとの理由から、抑止力の必要性を強調した。
ミルウォーキーでも、8月の記念行事が意義深いものとなった。
日本交流イニシアチブ(JOI)の新しいコーディネーター、飯野さえが7月に到着した。
飯野は広島の外れに住んでいた家族の四代目、いわゆる「被爆四世」である。
彼女の親族は、被爆後、被害者を助けるために放射能の街に入った。
彼女の曾祖父は歯科医で、曾おじも広島県出身で異なる家系から、壊滅した街で負傷者を助けた。
彼らは直接的な原爆生存者ではないが、影響を受けた。
「私の母は、曾祖父と曾おじが翌日たちに命を懸けて助けに行ったことを話していましたが、それは義務感からではありませんでした」と飯野は語る。
「彼らは、あまりにも多くの人が苦しんでいるのを助けるために行くことを選んだのです。彼らはすべてを見ました。恐ろしい光景、焼けただれた人々、そして亡くなっていく人々を見て、彼らは生き延びるために助けようとしましたが、多くの人が亡くなりました。」
飯野は最近になって、祖父母が戦争の厳しい時代をティーンエイジャーとして生きたことを知った。
彼女は、彼らの物語を聞くことなく育った。
彼女の祖父は14歳、祖母は12歳の時に広島が破壊された。
その後、彼らは仕事を求めて東京に移り、彼らの娘、飯野の母は、広島の影が家族の歴史に影を落とした。
しかし、母はそのことをほとんど話さなかった。
「私の母は、子供の頃、祖父母から当時の出来事を聞きましたが、彼女は本当にトラウマを抱えていたので、話したくなかったのです。」
その沈黙は、二年前に祖母が亡くなった後に破られ、母は祖先と家族の歴史についてもっと話し始めた。
その物語は飯野に強い印象を与え、彼女の曾祖父と曾おじが、今こそ現実を直視することを選んだことを示している。
日本の未来には大きな課題が待ち受けている。
国の人口が急速に減少しており、専門家はその影響が経済、安全保障、文化的記憶の維持能力に及ぶ可能性があることを警告している。
今年初めに発表された新しい政府データによると、2023年の日本の出生率は1.2に減少し、1899年に記録が開始されて以来最低となった。
出生数は727,000人をわずかに超え、前年から5%以上減少した。
これは8年連続の減少であり、政府はこの傾向が不可逆的であることを認めた。
結婚数も急激に減少し、475,000人未満にまで落ち込んだ。
日本では婚外出生が珍しいため、結婚の減少が出生率に直接影響を及ぼす。
岸田内閣官房長官は、この状況を「深刻」とし、「今後6年は、この流れを逆転させる最後のチャンスだ」と述べた。
「出生率の低下は、社会福祉の問題だけでなく、国家の基盤を脅かす可能性がある」と述べた。
政府は、家庭への経済支援を拡大し、助成金、保育サービスの拡大、親の育児休暇の拡充を約束している。
30億ドル以上が国家予算に割り当てられ、これらの施策の資金に充てられている。
しかし、専門家はこれらの施策が根本的な問題に対処するには不十分であると指摘している。
経済的負担、雇用の不安定さ、高い生活費が、多くの若者の結婚や子供を持つことをためらわせている。
均等ではない負担を女性に課す企業文化も、家族の生活を妨げる要因であると専門家は主張している。
「単なる経済的手段、例えば助成金を増やすことだけでは、出生数の深刻な問題を解決するには至らない」と、野村総合研究所の経済学者である木内貴英は最近の分析において書いている。
彼は、伝統的なジェンダー役割が社会的変化の障壁になっていると指摘している。
調査によれば、多くの若い日本人は、仕事の不安定さや経済的負担を理由に、もはや結婚や子供を優先していない。
その結果、日本の人口は1億2500万人から2070年までに約3分の1に減少する見込みで、8700万人に達するとされている。
40%が65歳以上になると予測されている。
世代間の変化が、国の歴史観にも影響を与えている。
急速に進む高齢化社会は、第二次世界大戦を生き抜いた人々が失われつつある一方で、将来の縮小に直面している。
生存者団体は、子孫が減少することで、戦争の記憶を伝承する者が少なくなることを危惧している。
8月15日の行事で遺族を代表して参加した江田恵美氏は、「戦争の教訓、戦争の虚しさ、復興の苦労、平和の大切さを伝えるのは日本の責任である」と強調した。
ティーンエイジャーたちが式典に参加し、戦場から帰れなかった曾祖父母からの手紙や物語が動機になっている。
その義務感は海外のコミュニティにまで広がっている。
ミルウォーキーの飯野氏は、家族の広島の歴史を記憶を保つ大きな責任の一部と捉えている。
彼女のミルウォーキーへの到着は、日本の夏の記念日と重なり、彼女の個人的な遺産と米日関係を強化する職業的使命を結びつけている。
生存者の子孫が、日本国内外で記憶を持続する役割を果たす可能性を示唆している。
記憶の証言が薄れていくことは沈黙を意味しないが、日本や海外において記憶がどのように伝承されるかの重要性が増している。
広島と日本の降伏の80周年は、国がその遺産と前例のない課題の間で揺れ動いていることを示す反省の時となった。
生存者たちは緊急性を訴え、世界が核の破壊の教訓を学んでいないと警告した。
リーダーたちは平和を語ったが、政治的矛盾への批判に直面した。
縮小する若い世代は、誰が記憶を受け継ぐ責任を果たしていくのかという疑問を投げかけている。
東京や広島から遠く離れたコミュニティにとって、このような記念日は遠い歴史ではない。
飯野のような子孫たちの物語を通じて、原爆の遺産と第二次世界大戦の教訓は今も共有され続けている。
画像の出所:milwaukeeindependent