Sat. Sep 13th, 2025

2023年5月27日、日本の天皇徳仁はアイスランドのハラ・トーマスドッティル大統領と東京の皇居で面会しました。
その際、天皇はアイスランドがなぜ世界で最もジェンダー平等が進んでいるのかを尋ねました。
この質問は、両国の間にある大きな対照を浮き彫りにしました。アイスランドは長年にわたり、『グローバル・ジェンダー・ギャップ報告書』でトップの座を維持している一方、日本はその底近くにランキングされています。

両国は1970年代に強力な女性の権利運動を経験しました。
アイスランドでは全国的なストライキが行われ、リーダーたちが法改革に着手し、女性の機会を拡大しました。
一方、日本でも解放や生殖の権利、職場での平等を求める抗議行動がありましたが、変化のペースは遅く、広がりがありませんでした。
この歴史が今日のジェンダー平等の大きなギャップを理解する手助けとなります。

アイスランドの女性の権利運動とその発展の背後には、特に1975年に行われた「女性の日オフ」があります。
この日は、アイスランド女性の約90%が仕事を休むことを決定しました。
彼女たちは、料理や家事、育児を拒否し、オフィス、学校、工場、航空会社からも職場を離れました。
このストライキは、低賃金、職場の不平等、そして女性を労働市場から追い出す保守的な政策に対する苛立ちから生まれました。

「女性の日オフ」は、1970年に発足したラディカルな女性運動「レッドストッキング」によって提唱され、国連が1975年を国際女性年と宣言したことをきっかけに加速しました。
多様な国の女性たちが団結し、主婦やシングルマザー、保守派、労働組合のリーダーなど、さまざまな背景を持つ女性たちが参加しました。

その日、レイキャビクの街に25,000人以上の女性が集まり、歌やスピーチで声をあげました。
この行動の規模は国を麻痺させ、新聞は発行されず、フライトはキャンセルされ、電話システムは女性オペレーターなしでは機能しなくなりました。
男性たちは職場で子どもたちの面倒をみることに追われました。

このストライキの影響は即効的かつ持続的でした。
経済的かつ社会的に女性の労働の価値が認識されるきっかけとなったのです。
その後、アイスランドは初の男女平等法を制定し、賃金差別を禁止し、憲法を修正して女性の平等な権利を保証しました。
また、1980年には世界初の民主的に選ばれた女性国家元首、ヴィグディス・フィンボガドッティールが選出されました。

一方、日本の1970年代の女性の権利運動は、主に「ウーマンリブ」として知られています。
ウーマンリブは、1960年代から1970年代にかけて広がったフェミニスト活動の波で、日本でも1970年代に根を張りました。
当時の日本社会は、女性に固定的な性別役割を押しつけており、無条件の母としての愛を提供し、夫に身を捧げ、家事や育児は当然のこととされていました。
結婚や出産を迎えると職務を辞すことが一般的でした。

このような期待に圧迫感を抱いていた女性たちは、男性中心の価値観に反発し、女性自身の身体と生活の解放を求めました。
1970年10月21日、国際反戦デーに日本初の女性解放抗議が渋谷で行われました。
この抗議は、田中みつにより設立された「闘う女グループ」によって組織されました。
田中は、女性の身体と生活が国家および男性の支配から解放されるべきだと訴える魅力的なリーダーとなりました。

その後の夏には300人以上の女性たちが集まり「リブキャンプ」を行い、自由のビジョンを共有しました。
1970年11月には日本で初のウーマンリブ大会が開催され、11月14日は「ウーマンリブの日」として今でも記憶されています。

同時期、日本では優生保護法改定に反対する運動も活発化していました。
この法律は、1948年に母体の健康を守ることを名目に中絶を合法化しましたが、一方では「劣等な子孫の出生を防ぐ」ことを目的としており、障がい者やハンセン病の人々に対する強制不妊手術の根拠ともなっていました。

1972年には改正案が提出され、経済的な理由での中絶を許可する条項が削除されるという提案がありました。
この改正案に対し、ウーマンリブの女性たちは、女性の身体に対する国家の管理に反発し、全国で抗議活動を行いました。
「出産の有無を決めるのは女性だ」というスローガンのもと、彼女たちは中絶権の保護だけでなく、国家が女性にどれだけの子供を産ませ、誰が生まれるかを決定できるかという体制に反対したのです。

結果として、この法案は廃案となり、事実上の中絶禁止につながる危険から女性たちを守りました。
この運動は、女性の身体の自主性を守る重要なレガシーを残し、後のフェミニズムや人権運動に影響を与えました。

また、1970年代後半には、日本において職場における性別不平等が大きな問題として浮上しました。
女性は低賃金に苦しみ、非正規雇用が急速に増加している中、女性たちは労働組合を組織し、男女の雇用機会を保障する法律の制定を求めて団結しました。

国際的な動向も、この動きを後押ししました。
1975年、国連は国際女性年を宣言し、「平等、発展、平和」をテーマに掲げました。
「女性のための10年」が始まることで、日本の運動も促進されました。

この年、女性団体と労働組合の女性部は国際女性年日本会議を開催し、46の団体と2,000人の参加者が集まりました。
この会議では決議が採択され、翌月には行動に移すための連絡グループが正式に設立されました。

これらの運動は、家庭と仕事の両立を支援する政策の根幹を築くことになり、後に雇用機会均等法の成立に繋がりました。

アイスランドは確固たる進展を見せましたが、日本は抵抗に直面しました。

アイスランドでは、「女性の日オフ」が国を麻痺させ、リーダーたちに行動を強いる結果となりました。
法整備が進み、女性が政治に参加し、経済力が認識されました。

それに対し日本では、活動家たちは自由、生殖の権利、職場での平等を求めたものの、進展は遅く、変化は部分的にとどまりました。
構造的な障壁は依然として堅固でした。

アイスランドの女性たちは現実を変えましたが、日本の女性たちの闘いは断続的な成果に留まりました。
1999年に男女共同参画基本法が制定された後、日本の女性の権利活動は後退し、保守的な団体と政治家が「ジェンダーフリー」教育や地方の平等条例を攻撃するようになりました。

これらの政策は伝統的な家族の役割や文化的価値を脅かすものだと主張され、政策改革は妨げられました。
現在、右派政党「参政党」が台頭しており、2025年の参院選では議席数を1から14に増やしました。
これにより、伝統的な価値観を強調し、ジェンダー平等政策を日本の出生率や文化に対して有害なものとする攻撃が続いています。

このような抵抗の歴史と現在の動向を考慮すれば、日本がなぜ世界的なジェンダー平等のランキングで下位に位置しているのか、その理由が見えてきます。

画像の出所:unseen-japan