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1945年8月14日、テネシー州オークリッジの住民たちは、ジャクソンスクエアに集まり日本の降伏を祝いました。

オークリッジはマンハッタン計画の主要な拠点の一つであり、ウランを精製しロスアラモスへと運ぶ役割を担っていました。

この日、アメリカ国民全体が日本の降伏を祝っていましたが、正式な降伏の日付は2023年9月2日であると、当時のハリー・S・トルーマン大統領は国民に告げました。

トルーマン大統領は、蒸気船ミズーリでの日本の降伏の公式な調印式を広報し、9月2日を「V-Jデー」と宣言いたしました。

アメリカでは、毎年9月2日に太平洋戦争に従事した男女の犠牲を称える式典が行われています。

しかし、1945年9月2日までに、日本の降伏を祝う活動はすでに数週間にわたってアメリカ各地で行われていました。

多くの人々が戦争の終結を祝っており、V-Jデーにおける象徴的な写真の多くは、実際には9月2日ではなく8月14日に撮影されました。

では、なぜV-Jデーの日付がこれほど異なっているのでしょうか?

その答えは、1945年の8月から9月にかけての太平洋戦争の複雑な出来事にあります。

### 広島から東京へ

1945年7月、連合国の指導者たちは、ドイツのポツダムで日本との戦争終結に向けた戦略を議論しました。

ドイツはすでに降伏しており、連合国は「無条件降伏」の条件を受け入れていました。

ポツダム会談ではソ連の指導者スターリン、アメリカのトルーマン大統領、イギリスのアトリー首相が参加し、ソ連が日本に対して満州を攻撃することが合意されました。

会議が始まる前日の7月25日に、アメリカは世界初の原子爆弾をトリニティ実験で成功裏に爆発させました。

これは秘密にされていたため、トルーマンはその成功を知っていました。

その後、連合国は7月26日にポツダム宣言を発表し、日本に対して無条件降伏の条件を受け入れるように求め、「迅速かつ徹底的な破壊」を示唆しました。

しかし24時間後、戦争を続けるべきとする東条英機の内閣の軍部が日本側の立場を公表しました。

7月31日、トルーマンは日本に対して直接的な核攻撃のための準備を承認しました。

### 原爆投下。

1945年8月6日、アメリカのB-29爆撃機3機(その内の一機はエノラ・ゲイ)が広島の上空に飛来し、8時15分に一発の原子爆弾を投下しました。

爆弾はほぼ1分後に爆発し、即座に最低8万人が死亡しました。

彼の政府は公式な反応を示さようとせず、天皇の内閣内の軍部は戦争を続けるべきという意見を主張しました。

その後3日後の8月9日、今度はナガサキに対してまたB-29(ボックスカー)が原爆を投下しました。

この日のうちに、ソ連が満州に侵攻を開始しました。

これにより、天皇は意思決定プロセスに直接介入し、8月10日の早朝、彼は内閣にポツダム宣言の受諾を支持する意向を表明しました。

内閣はその後、天皇の決定に基づいた声明を用意し、スイスを通じて連合国に提出されました。

声明内では、日本政府はポツダム宣言を受け入れる準備があることが記されていますが、その際に天皇の権限を維持してほしいと求めました。

その日の午前中に、東京で日本側の決定が伝えられ、トルーマンの内閣での議論が始まりました。

翌日、日本側に送られた合意の声明は、天皇と政府の権限が連合国の最高司令官によって拘束されることになるという条件が付けられました。

ただし、日本からの公式な返事はすぐには来ず、その間にB-29による通常爆撃が続けられました。

8月13日から14日にかけ、アメリカのB-29は日本の都市に向けて天皇が降伏の可能性のある条件を伝えたことを知らせるチラシを投下しました。

この公表が日本の内閣に新たな危機を引き起こしました。

天皇は戦争を終結する意向を改めて表明し、夜遅くに日本国民にその決定を伝えるメッセージを録音しました。

数時間後、政府内の降伏反対派が天皇の録音を破壊しようとするクーデターを起こしましたが、翌朝にはその陰謀は失败に終わり、参加者は自殺しました。

8月15日正午、天皇の録音が日本国民に向けてラジオ放送されました。

この日は、天皇が国民に直接話す初めての機会であり、彼は降伏という言葉を使わずに政府がポツダム宣言の条件を受け入れる旨を発表しました。

### 各地での祝賀

日本の降伏の意向がワシントンD.C.に届いたのは、実際には現地時間8月14日の夜でした。

午後7時、トルーマン大統領がオーバルオフィスで記者団に東京のニュースを発表し、この知らせが国中に広まると、祝賀が各地で沸き起こりました。

最も有名な祝賀はニューヨークのタイムズスクエアで行われたものです。

このため、アメリカ人が戦争終結を記憶する時、数多くの象徴的な画像は8月14日に撮影されたことになります。

一方、イギリスでは翌日8月15日が正式にV-Jデーと宣言され、今でもそう認識されています。

日本でも同日8月15日が戦争終結の記念日とされていますが、トルーマン大統領は記者会見で「V-Jデーの宣言は日本の降伏条件の正式な調印を待って行う必要がある」と明確に述べました。

日本の正式な降伏は8月31日に予定されていましたが、悪天候のため9月2日に延期されました。

この日、戦艦ミズーリの甲板上で日本の代表団が正式な降伏文書に署名し、連合国の最高司令官ダグラス・マッカーサー将軍がその署名を見届けました。

ワシントンにてトルーマンは降伏文書の調印を9月1日の夜に発表し、次の日をアメリカの公式なV-Jデーと宣言しました。

再び、国中で日本の公式な降伏を祝うための群衆が集まりました。

### 記念日が異なる理由

太平洋戦争終結に関する一連の出来事が複雑なため、V-Jデーはさまざまな日付で記念されています。

8月15日、天皇の宣言が現地時間で行われた日。

8月14日、アメリカで天皇の降伏意向が伝えられた日。

そして、9月2日、日本の正式な降伏が行われた日です。

イギリスは毎年8月15日を正式にV-Jデーとして祝っていますが、オーストラリアではこの日を「太平洋の勝利の日(V-Pデー)」として認識しています。

V-Jデーは通常、第二次世界大戦の終結を示すものと見なされていますが、さらに複雑なもう1つの日付があります。

それは1946年12月31日です。

この日は、トルーマンが「第二次世界大戦の戦闘行為を終結する宣言」を発表した日でした。

これによりトルーマンは戦時中に施行されていた53の「戦争及び緊急法令」の終了を正式に発表しました。

この発表によって、アメリカは歴史上最大の衝突からの撤退を正式に果たしたことになりました。

画像の出所:nationalww2museum