Sun. Jun 22nd, 2025

サロンの椅子に座っていると、隣にいる女性がiPhoneで clack-clack とタイピングをしているのが耳に入る。

彼女の打つ音は、まるで1985年ごろのタイプライターのようだ。自分の反射を鏡で見ながら、私は思わず目を roll してしまう。

次の瞬間、彼女の電話が鳴った。微かな振動では物足りなかったらしい。

「マ・ベル」に匹敵するフルボリュームの着信音は、モーテルのドアを叩くような音だった。彼女は電話をスピーカーモードにし、15分もの間、血液検査の話を周囲全体に聞かせる。

私はその会話の一部ではなく、まるでそこに存在しないかのようだ。

なぜこうした些細なことでイライラを感じてしまうのか、私はじっくり考えていた。

先週、帰宅するために飛行機に乗っているときも、その思いは続いた。

公共スペースにおける不快感は、空港ほど極端な例はないだろう。

移動歩道の幅を封鎖している家族、45分のフライトで私の膝の上にシートをリクライニングさせる男性、そして足元にハードボイルドエッグを開ける女性…

あるいは、私のシートを蹴り続ける子供。

これらの微小な感情の積み重ねは、私にはジョークの宝庫に思えず、むしろ世界が狂っている証拠のように思えてしまう。

人々があまりにも自己中心的になっているように感じる。

その時、私のいちばん腹立つことは、ランダムな接触や大声の会話ではない。

それらが重なり合うことで、私たちが無力感に囚われることなのだ。特に、公共の場が侵害されそうな時には、余計にそう感じる。

公共の場での意識の薄れは、私たちが共有しているはずのものが、徐々に奪われているのではないかという不安をかき立てる。

しかし、私たちがパブリックスペースを大切にすべき理由は、彼らの存在が予想以上に価値があるからだ。

そんな中、奇妙な出来事に遭遇した。

SLCから東へ向かう道中、私と愛犬ライリーは、DTWからROCへの接続便に乗っていた。

小さなジェット機の窓際席に座り、ライリーのキャリアは前の席の下に置いた。

その時、疲れ切った表情の女性が通路を歩いてきて、私の隣に座った。

友好的に接しようと、「今日はどう?」と声をかけた。

彼女は静かに「まあまあ」と答え、続けて「娘を今週埋葬した」と言った。

私の心臓は止まりそうになり、「ごめんなさい」としか言えなかった。

私たちは毎日、公共の空間で見知らぬ人と接している。

その中で、時折痛々しい現実を共有する瞬間がある。

宇宙的な匿名性の中で、ありのままの人間らしさが顔を出すことがある。

そう考えると、些細なことで苛立つことも本質的には悪くない。

お互いに少し優しく、少ししかしもっと意識を持って振る舞えば、時には思いもよらないことに出会うかもしれない。

画像の出所:parkrecord