2023年8月15日は、昭和天皇(裕仁)による日本の第二次世界大戦の降伏宣言から80周年を迎えます。
生存する証人が減り、記憶が薄れゆく中、日本では若い世代にどのように戦争を教えるべきかという問いが残されています。
東京の武道館では正午から国家的な式典が行われ、当時の裕仁天皇の4分半の事前録音されたスピーチがラジオで放送されました。
裕仁天皇の戦争に対する責任は今日においても物議を醸しており、日本は国内外での侵略の歴史に向き合うことに苦慮しています。
1995年、当時の村山富市首相がアジアにおける日本の侵略について謝罪したことは海外で歓迎されましたが、その後は修正主義者や責任を否定する人々からの反発が続いています。
天皇の降伏宣言の背後には、混乱した軍の抵抗がありました。
広島と長崎への原爆攻撃が行われた後も、軍政府内では戦争の終結についての意見の対立が続いていました。
降伏発表の前日、裕仁天皇は正式な軍服を着て、宮内庁の地下室で政府の高官たちと会い、降伏を承認しました。
NHK(日本放送協会)のスタッフが密かに招集され、裕仁天皇はその夜遅くにスピーチを二度録音しました。
配信施設を占拠しようとしていた軍の一部隊から妨害を受けないように、宮内庁の職員たちは録音を隠しました。
その混乱の中でも、宮内庁は無事に録音をNHKに届け、1945年8月15日の正午にラジオ放送が行われました。
降伏の発表の瞬間まで、自殺、クーデターの試み、軍の官僚間での戦闘が続いていました。
裕仁天皇のラジオスピーチを聞いた多くの人々の記憶は、戦争の終焉を迎えた複雑な感情を映し出しています。
長崎で原爆の投下からわずか6日後に宣言を聞いた文子土井さんは、隣人たちが自宅に集まり、キャビネットの上に置かれたラジオでスピーチを聞いたことを覚えています。
文子さんは、何を言っているのかはっきりとは理解できませんでしたが、それが日本の降伏の発表であることを後に知りました。
「ただ、もう少し早く天皇が戦争を終わらせるよう命令を出してくれればよかったのに」と彼女は語ります。
原爆投下により、広島と長崎で21万人以上の人々が死亡し、多くの生存者が放射線障害に苦しみました。
1945年8月9日、文子土井さんは、アメリカのB-29が原爆を投下した地点から5キロメートル(3マイル)離れた場所で電車に乗っていました。
彼女の母親と3人兄弟のうち2人が癌で亡くなり、2人の姉妹も健康に苦しんでいます。
医療制度の欠如があった東京の病院にいた茜武斗さんは、戦争の終結を知ったときに涙を流したことを思い出します。
彼女は17歳で、5ヶ月前の東京大空襲を生き延びた看護学生でした。
8月15日、皆が大事な放送のために集まった際、天皇の声がラジオから流れると、涙を流す人々がいました。
「最初に思ったのは、今夜は明かりをつけていても大丈夫だということでした。
戦争が終わったことに安堵しました。」と茜さんは振り返ります。
また、戦争が終わったことが即座に困難な状況を解消したわけではなかったとも彼女は指摘します。
彼女の病院と看護学校が連合国に占拠されたが、2年後に卒業して小児看護のキャリアを追求しました。
「私たちが経験したことは二度と繰り返されるべきではない」と彼女は言います。
一方、広島の生存者である田美子空さんにとって、降伏のスピーチは複雑な思いを抱かせるものです。
8月6日の原爆投下で、彼女と家族はかろうじて生き残りましたが、彼女の祖母と親戚は死亡しました。
原爆でインフラが破壊されたため、広島ではラジオ放送の音質が特に悪く、家族はスピーチを聞くことに苦労しました。
しかし、スピーチは彼女にとって安堵感をもたらしました。
「戦争には、子供にさえ恐怖を与えるものがあります」と彼女は話します。
裕仁天皇の息子と孫は繰り返し戦争に対する深い remorse(遺憾の意)を表していますが、近年の首相たちはアジアでの日本の侵略の被害者に謝罪を行っておらず、政府内には修正主義に傾く動きがあります。
現在の天皇、徳仁は、戦争の悲劇的な歴史を次の世代に伝える重要性を繰り返し強調しています。
彼は硫黄島、沖縄、広島を訪れ、9月には娘の愛子さまとともに長崎を訪れる予定です。
一方、首相の岸田文雄氏は、日本の戦時中の歴史についてより中立的な見解を示し、戦争の悲劇を次の世代に教えていくことを目指していますが、7月の選挙敗北を受けて、政党内の極右派からの圧力にさらされています。
画像の出所:apnews