Fri. Aug 15th, 2025

平和主義者にとって、答えは明確です。人を故意に殺すことは常に間違っているため、1945年8月6日と9日に広島と長崎に原子爆弾を投下したことは、20万人分の間違いであると考えることができます。これにより、日本の戦勝記念日を祝うことが複雑になります。

この明確な答えは、さらなる質問を引き起こしますが、その答えは必ずしも明白ではありません。もし殺人が常に間違っているのなら、アメリカは帝国日本とその同盟国であるヒトラーのドイツに対して戦争を起こすべきではなかったということになります。それでは、どうやって残虐な人種差別的な日本の帝国主義や、殺人鬼的なナチズムの勝利を阻止することができたのでしょうか?

残念ながら、歴史的な証拠は、ビルマの奴隷労働キャンプを運営していた人々や、ドイツのダッハウやポーランドのアウシュビッツでの所業が、脆弱な無垢の顔によって恥じることはなかったことを示しています。逆に、彼らはそれに興奮し、支配欲を満たしていくのです。

『ナロウ・ロード・トゥ・ザ・ディープ・ノース』の映像化で、オーストラリアの戦争捕虜が殴り殺される様子を観た者にとって、これが疑いの余地のないことであることは明らかです。

一方、戦争が時には正当化されると考える人々は、原子爆弾による民間人の大量殺戮が、その規模の大きさから見て無差別であり、したがって不正であると考えるかもしれません。しかし、ここには2つの問題があります。

第一の問題は、戦争が道徳的に正当化されると考える人々の大多数、特にカナダ、イギリス、アメリカなどの英語圏の国々では、ヒトラーと彼の同盟国に対する戦争は道徳的に正当であると認識されている点です。その結果、この戦争は6000万から8000万の死者を出し、その半分以上が民間人であったにもかかわらずです。

第二の問題は、「正当な戦争」という倫理伝統は、民間人を無差別に殺すことを禁止するのではなく、あくまで意図的に殺すことを禁止している点です。軍事的目的が達成できない場合、民間人の死の可能性や確率が災害的結果として生じることになるのであれば、それでも試みることが許されるかもしれません。その目的が、軍事的に十分に重要であり、民間人の死傷者を避けるための合理的な手段が講じられている限りです。この許容の理由は、多くの状況では正当な戦争を遂行することが不可能になるからです。

したがって、「正当な戦争」を支持する立場から見ると、原子爆弾の投下が日本における重要な軍事的または軍事関連目標の破壊を目的としていたのであれば、また他にその目的を達成するための方法がなかったのであれば、その爆撃は道徳的に正当化されたと見ることができます。それは非常に悲劇的な出来事でしたが、それでも正当であったと言えます。

しかし、もし原爆投下の意図が日本人を無差別に復讐のために殺すことであったなら、その行為は明らかに非道徳的であると言います。復讐の動機は常に禁じられているためです。日本政府を服従させるために無差別な民間人の虐殺を利用することもまた非道徳的です。なぜなら、そのような「テロ的」手法で民間人を利用することが許されるのであれば、戦争において行なうことに制限はなくなってしまうからです。

画像の出所:nationalpost