冬の夕日を眺めながら、雪山を疾走するスノーモービルツアー。カリフォルニア州バイルでのこの経験は、驚くほど贅沢である。毎週数回、「こんなことでお金をもらっているなんて信じられない!」という声が聞かれる。
バイルのアドベンチャーリッジ部門が運営するこのツアーは、実際のスキー山で行われ、山が開いている間は仕事をすることができない。
私は自由にスロープを滑り、昼食を格安で楽しんだ後、午後2時30分にスノーモービルをセットアップし、1日に3回のツアーをリードする準備を整える。
最低賃金を少し超える給料に加えて、ツアーごとに平均10台のスノーモービル、そして1台あたりのチップが20ドル。これをリードガイドとテールガイド、つまり私で分け合い、私は20%を受け取ることで、1日あたり約120ドルを稼いだ。
大学を卒業したばかりの私にとって、毎日手に入る現金は非常に大きな収入であり、会社の住居に住んでいたことで私はまるでリッチであるかのように感じていた。
それでも、バイルは私の本当の目標である日本に移るための一時的な休みであるはずだった。
2001年、日本へ移住した。
外国人としての経験をし、移民としての生活を体験したかった。また、東洋と西洋の思考の融合を目の当たりにしたいとも思っていた。
ヨーロッパに住んだこともあり、南アメリカを訪れたこともあったので、アジアは次のストップだと感じていた。
日本に到着したときの印象は、まるでずっと食べていた食べ物に、ある日出会った最高のバージョンのようだった。それが「究極の理想」となり、他のすべてが安売りの模造品に感じるといった具合だ。
日本での生活は、テクノロジーの進歩に関してはアメリカよりも進んでいることを実感させられる。
携帯電話のカメラが友人たちよりも早く手に入ったり、数十年前から携帯電話で支払いができることなど、アメリカではまだ一般的でないことを経験した。
日本の電車は速く、時間通りに運行されていた。街は清潔であり、都市は安全に感じ、お世話になった人々はいつも歓迎してくれた。
当時、GPSが一般的ではなかった日本で、街角で地図を広げると、誰かがすぐに手助けを申し出てくれると言う経験をしたのだ。
歓迎してくれる人々がいたが、それでも日本の文化的なルールや習慣は、観察を通じて学ぶ必要があった。
たとえば、日本の4歳の子供がご飯に箸を逆に刺して立てると、葬式での供え物と同じ形なので、きっと叱られることであろう。
私が同じ過ちを犯しても、誰もコメントはしない。
もちろん、日本人の友人に尋ねれば、彼らは優しく、その日の失敗を教えてくれた。
日本での5年間を大切に思い、もし可能ならもう一度経験したいと思う。
日本での生活は快適で、文化豊かで、歴史が豊かだった。それでも、母国から完全に解放された生活が期待しながらも、それを永遠に続けるのは難しいことに気づいた。
日本は素晴らしいところだったし、戻りたいと心から思う。しかし、いつも訪問者のように感じていたのだ。
そのため、新たな冒険を求め、再び世界へ飛び出した。次の目的地はタイのチェンマイで、まだ独立したフリーランスのライターとして生活ができる数少ない場所だった。
過去のスキーバムの生活を放棄しなかった場合、人生がどのように変わったのだろうかと時々考える。
画像の出所:businessinsider