アメヤ・デサイが米国のナショナルパブリックラジオ(NPR)の学生ポッドキャストチャレンジで、昨年の四年生部門の賞を受賞した際、驚くべき出来事が起こった。
近所の人がアメヤに、彼女がジャーナリストとして11歳であるにもかかわらず、日本人収容所の生存者である祖母をインタビューしてほしいと頼んだのだ。
アメヤは、この歴史を自分が知らなかったことに驚き、感銘を受けた。
それは彼女の故郷、カリフォルニア州サンノゼで起こった歴史だった。
この経緯が彼女を85歳のリンダ・ホリカワに導いた。ホリカワは、アメヤが「五年生の子どもが日本人アメリカ人の移転について興味を持っていることに驚いた」と述べた。
最初はためらっていたホリカワだったが、「今こそ、本当にあったことを皆に伝える良い機会だ」と思ったという。
その結果、アメヤのポッドキャスト「遠く離れて – シカタガナイ」が生まれた。
物語は1940年、カリフォルニア州クパチーノのベリー農場で始まる。
「ボイセンベリー、ブラックベリー、ストロベリーがあり、とても幸せでした」とホリカワはアメヤに語った。
しかし、幸せな家族農場の日々は、ホリカワが2歳の時に終わりを迎えた。
「真珠湾攻撃の後、日本人アメリカ人に対する嫌悪感が高まり、多くの人々がアメリカへの忠誠心について疑問を持たれました」とアメヤがポッドキャストで説明する。
1942年、アメリカ政府は約12万人の日本人アメリカ人に対し、西海岸の自宅を離れるよう強制した。
ホリカワは、心の底から恐ろしいキャンプ生活に関する生々しい詳細を語る。
彼女は、到着時に家族に銃が向けられた場面を語り、タール紙でできた小屋に入れられた経験を共有する。
家族全員が一部屋に詰め込まれ、個別のトイレもなく、皆が共有するトイレが並んでいた。
そして、3年後にカリフォルニアに戻れることになったが、元のコミュニティに再統合するのは容易ではなかった。
「偏見がありました」とホリカワは涙声で語った。
「子どもたちが『あなたの目はこんな風になる』と言いました。しかし、それが両親に与えた影響はもっと大きかったと思います。彼らの人生への喜びが失われたように見えました。」
歴史を再確認するトランクを開く
審査員たちは、アメヤのポッドキャストを、今年受け取った約2,000件の応募の中から選んだ。
彼らはホリカワの物語に感動し、アメヤの声と執筆に込められた思いやりと好奇心に魅了された。
NPRの「エンベデッド」のシニアプロデューサーであるアデル・ランシアネーゼは、彼らのインタビューには「ストーリーコープの雰囲気がある」と評価した。
学生ポッドキャストチャレンジは7年の歴史があり、アメヤは初の連覇者となった。
昨年、アメヤは「遠く離れて – シュガーケインズ・オン・マイ・マインド」というポッドキャストで四年生部門の受賞者であり、彼女はインドからウガンダ、そしてアメリカへ強制移動した祖父のインタビューを行った。
この新しいポッドキャストでは、ホリカワは過去25年間開かなかったトランクをアメヤのために開けた。
そこには、強制移住の権限を証明するパスや、常に携帯しなければいけない身分証明書が入っていた。
また、戦争、収容所、そして帰宅する家族に関するニュースレターや新聞のクリッピングもあった。
ホリカワがカリフォルニアに戻った後、彼女はサンノゼで育ち、自身の学校区で幼稚園の教師として40年間勤務した。
「日本人はそれについて考えすぎないと思います」と彼女は言う。
「文化的に、味気ないことが起こると、話さないことにします。それは大きな秘密ではありません。ただ、このことについては話したくないのです。」
彼女の両親は、彼女が育つ中でその話を避け続けた。
ホリカワ自身も、アメヤとのインタビューまで、25年間トランクを開かなかった。
「教師として、子どもたちの興味をさらに広げたいという思いがあります」と彼女はアメヤを見つめながら続ける。
「そしてここで、私は友達を見つけました。」
アメヤは手を繋ぎながら、ホリカワの物語を共有できることが、自身の勝利よりもはるかに意味深いと語る。
「私は光栄です。過去の物語が失われず、同じ過ちを繰り返さない助けになることに貢献できたからです。」
画像の出所:npr