昨日、ロイヤルオペラハウスで行われた日本バレエ団(NBJ)の『ジゼル』の初公演について、観客から称賛の声が上がっています。
この公演はNBJにとって初めてのロイヤルオペラハウスでのパフォーマンスであり、宮古佳代の演出によるもので、極上の演技、洗練された美しさ、心を奪う魅力が感じられました。
私はパフォーマンスを判断するために二つの観点を持っています。
それは、時間が消えるかどうか、そして再び観たいかどうかということです。
答えは「はい」です、そして「はい」です。
カーテンが上がると、ディック・バードの美しいセットの瞬間に、時間は薄れていきました。
私はまるで、何の抵抗もなくその世界に引き込まれたかのように感じました。
カーテンコールでは、もう一度この舞台を観たいという思いが募りました。
これ以上の称賛はないでしょう。
NBJのロイヤルオペラハウスへの初訪問でしたが、これが最後とは思えません。
宮古佳代は、自身の演出デビューを誇りに思うべきです。
特に私は二つの印象的な要素に心を奪われました。
まず、個々の「スター」パフォーマーの質の高さです。
彼らは世界のトップと肩を並べられるほど優れています。
特に、ジゼル役の柴山早帆は本当に素晴らしかったです。
派手に見せびらかすことなく、完璧な技術(たとえば、戦士のポーズで前方に進む際、完璧なアライメントを維持したまま)と、より重要なことは、感情的な誠実さを持って踊りました。
アルブレヒトの二重生活が明らかになる際の彼女の苦悩は、深い感情の洞察とともに表現されました。
サミュエル・ベケットは、役者に「演技」をやめて、彼が書いた通りの役を演じるよう厳しく求めました。
私はNBJのダンサーにも同じことを感じます。
彼らは自らのエゴよりも、作品とカンパニーを優先します。
これが、非常に本物で誠実な製作を生み出します。
アルブレヒト役の早見聖悟は、優雅かつ印象的ですが、仲間を上回ろうとはせず、まるでチームのためにチャンスを作るサッカー選手のようです。
彼は、ショーの媒介者であり、最終的な存在ではないことを理解しています。
その自己犠牲の精神こそが、偉大なアーティストの真の指標です。
次に特筆すべき点が、コール・ド・バレエの素晴らしさです。
彼らは一つの体のように演技し、私が目にした中で類を見ないものです。
まるでローマのプレトリアン・ガードがシンクロナイズド・スイミングをしているかのように、彼らは毫秒単位、ミリメートル単位の精度で動き、ひねり、回転し、ジャンプし、整列しました。
まったく衝撃的な光景でした。
宮古自身がプログラムノートで指摘しているように、NBJのコール・ド・バレエは、日本の文化が厳しい規律、忍耐、そして持続性を重視しているから優れています。
これは、私が体験した驚くべき振付の複雑さや同期性が完璧に実行されることによって確認されるものです。
私はそれを刺激的で感動的に感じました。
チーム全体の努力の一環として、全てのキャスト、スタッフ、クリエイターが、この『ジゼル』を成功に導いています。
先ほど触れたディック・バードのセットデザインも秀逸です。
第一幕の小屋は村の雰囲気を捉え、第二幕の森林、墓地、ならびに冥界は驚くほど印象的です。
木の根や、恐ろしい形の木の幹がつくり出す正しい雰囲気が、ウィリスの不気味な死の舞踏を演出します。
ウィリスとは、婚礼の日に恋人に裏切られた乙女たちの幽霊です。
白いドレスを着たミス・ハビシャムのようで、感情的でありながらもラインが美しいパフォーマンスを展開しました。
ディック・バードがデザインしたコスチュームは素晴らしく、特に白いウェディングドレスとベール、翼が印象的でした。
コール・ド・バレエは言ってみれば「集団の死体」です。
それは異世界や超自然的な雰囲気を見事に捉えています。
ミゼン・シーンは照明に依存しており、リック・フィッシャーは最高の照明を提供する際の名手です。
彼はここでも素晴らしい仕事をしました。
舞台の端で月明かりの下で踊る彼らは、ロマン主義と死の二重の感情を美しく実現しました。
アドルフ・アダンの音楽はロイヤルバレエシンフォニアにより素晴らしく演奏され、指揮は冨田美里が務めました。
この『ジゼル』の制作は、ヨーロッパのクラシカルな伝統と、日の出の国の素晴らしい文化を融合したものです。
画像の出所:londontheatre1