Fri. Oct 3rd, 2025

2025年3月18日、ロサンゼルス・ドジャースとシカゴ・カブスが東京ドームで対戦した「東京シリーズ」において、大谷翔平がフィールドに立ちました。この瞬間は、アメリカと日本の間に100年以上続く野球の絆を乾杯するものでした。

このシリーズは、数人の日本人選手が活躍する中で、MLBが2019年以来初めて日本に戻った証として、巨大な財務的成功を収めました。

東京シリーズは、チケット販売とスポンサーシップ収入で3500万ドル以上、マーチャンダイズ販売で4000万ドルを超える収益を上げました。

このような成果は、MLBが過去30年間にわたり日本と国際野球に投資してきたことの結実を示しています。

野球の日本への導入は、19世紀末の明治維新にさかのぼります。アメリカの野球プロモーターは、日本市場の潜在能力を早くから見込んでおり、1908年に日本を訪れました。

特に有名なツアーは1934年に行われ、ベーブ・ルースや捕手モー・バーグなど、アメリカンリーグのオールスター選手が参加しました。

このツアーの結果、アメリカンリーグオールスターは「大日本東京野球倶楽部」と対戦しました。これが、のちにアメリカでの知名度向上のためにチーム名を変更するきっかけとなりました。

サンフランシスコ・シールズの監督レフティ・オドゥルは、東京が日本のニューヨークであるとコメントし、チーム名にそのスピリットを取り入れることを提案しました。結果、「大日本東京野球倶楽部」という名前は「東京(読売)ジャイアンツ」として生まれ変わりました。

その後ジャイアンツは日本に戻り、日本野球リーグが設立され、1950年には日本プロ野球(NPB)へと再編されました。ジャイアンツはその後、22度の日本シリーズ優勝を果たし、868本のホームランを放った王貞治などのレジェンドも輩出しています。

MLBへの進出は、1964年9月に日本人選手として初めてメジャーリーグにデビューした村上雅則から始まりました。しかし、彼の登場はNPBとMLBの間で契約上の対立を引き起こしました。

その結果、1967年に両リーグは日本の選手がMLBに移籍することを制限する合意を結びました。90年代にはこの合意が時代遅れとなり、日本の選手たちが交渉力の不足にいら立つ事態が発生しました。

1994年、近鉄バファローズが野茂英雄に対し長期契約を提示しなかったことにより、彼の代理人は「自発的引退条項」に穴を見いだし、ロサンゼルス・ドジャースと契約しました。

野茂の影響は計り知れず、彼の「トルネード」ウィンドアップと初期の成功は、前年のワールドシリーズが中止となったメジャーリーグに新たな活力を与えました。

日本では「野茂フィーバー」が巻き起こり、多くの人々が彼の試合を見に集まりました。彼の初シーズンはナショナルリーグのルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得し、日本からのスポンサーシップやテレビ権を後押ししました。

しかし、数年後には契約問題から新しいルールの必要性が明らかになり、NPBからMLBへの選手移籍のための新たな規則が整備されました。

その新しいルールは1998年末に設定され、NPBを退団する選手には、MLBが交渉する45日間のウィンドウが設けられました。

25歳未満でNPBでのプロ経験が9年未満の場合、国際選手の制限付きサインプールの対象となります。さもなければ、選手はフリーエージェントとして扱われます。

この結果、NPBからメジャーリーグへと移籍する日本人選手が増加しました。これまでにメジャーでプレイした81人の日本人選手のうち、NPBでプレイしていなかった選手はわずか4人です。

イチローは、MLBの名誉の殿堂に初めて選ばれた日本人選手であり、最初の日本人ポジションプレーヤーとしてMLBに挑戦しました。

また、松井秀喜はワールドシリーズMVPを受賞した唯一の日本人選手として名を刻みました。

そして大谷翔平は、打者と投手の両方で活躍できるスター選手となり、ベーブ・ルースに類似した存在として注目を集めています。

日本人選手の影響はフィールド上のパフォーマンスだけでなく、MLBのグローバルファンベースの拡大にも寄与しています。大谷の登場により、ドジャースは初年度で1億2000万ドル以上の収益を上げ、彼の給与を含めても余裕でカバーしました。そのフランチャイズ価値も23%増加し、80億ドル近くに達しています。

さらに、過去2シーズンで視聴者数が大幅に増加し、その一因には日本からの関心の高まりがあるとされています。

画像の出所:theconversation